你知道“日俄戰爭”嗎?來認識這場在日本歷史上的重要戰爭!

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  • 日俄戰爭(日語為日露戦争),不單是對於日本歷史重要的一頁,對於世界歷史也有著深遠的影響。這一段關於剛剛解除鎖國政策的小國日本對抗俄羅斯巨大帝國的歷史,就像聖經裡大衛對抗巨人哥利亞的故事一樣!這是二十世紀的第一場重要戰爭,也是第一次世界大戰的主要導火線。戰事為二十世紀奠定了發展路向,也是一個帝國步向滅亡的開端。

    戰事背景

    日露戦争写真画報 第一巻 斎木寛直 編 博文館 1904年4月8日(明治37年) . 『日露戦争ネタもそろそろ尽きてきた。いや、『日露戦争写真画報』などはたくさんあるのだが、戦争を讃美しているように思われても困る。私は決して、戦争マニアでそういう古雑誌を集めているわけではなく、その反対に、二度と戦争を繰り返さないために、戦争とはどういうものなのか、そのなかで人間はどう変わるのかを知っておかなければならない、と思っているだけだ。 . 戦争とか犯罪とか、人間の醜さや愚かさや残酷さを突きつけられるテーマについて書くのは、これまでできれば避けたいと思っていた。取材や調査をすればするほど、自分の気持ちが落ち込んでいったり、一日中ため息をついてすごしたり、暗然として原稿を書く気持ちになれなくなる――とわかっていることを、何も自分から進んで取り上げなくてもいいじゃないか、とずっと逃げ腰でいたのである。戦後生まれだし、戦争について書かねばならない、という義務感のようなものも幸い感じずにすんでいる。 . しかし、最近、戦争というものが身近なものに感じられてならなくなった。戦争というか、テロというか……。普通の生活を送っている市民が、いつ理不尽に命を奪われるかもしれない、という恐怖。テロと戦争とは違うという。では、どう違うのか。そんな基本的なことさえ、まともに説明できない自分に気づいて愕然とする。 . この数カ月間、日露戦争について調べてきた。戦争というものがよくわかったとはいえないものの、自分なりに、これからは戦争について逃げ腰にならずに書いていこう、という覚悟はできた。明日は、60年前に広島に原爆が投下された日である。私の両親はその日、福岡県の小倉にいた。2人とも十代の子供で、まだお互いのことは知らなかった。もし、その日の小倉上空の視界が良好だったとしたら、原爆は最初の予定通り小倉に投下されていただろう。そして、私はこの世に生まれていなかったにちがいない。』 (ブログ「古書の森日記」2005年8月5日より) http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/29682202.html . 注:小倉の代わりに投下されたのは8月6日の広島でなく、8月9日の長崎と言われています。 . 本誌は下記でも取り上げられています。 『編集者 国木田独歩の時代』 黒岩比佐子 著 角川選書 2007年12月10日 https://www.kadokawa.co.jp/product/200604000244/ . #黒岩比佐子#古書#古本#雑誌#グラフ誌#戦争雑誌#明治#日露戦争写真画報#博文館#日露戦争#編集者国木田独歩の時代#kuroiwahisako#hisakokuroiwa#book#secondhandbook#magazine#pictorialmagazine#warmagazine#meiji#russojapanesewar#kunikidadoppo#doppokunikida

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    經歷長年內戰,德川家康最終也統一了天下。但看著亞洲鄰國不斷被西方國家影像甚至入侵,江戶幕府決定實施鎖國令,任何人不得進出日本國境,否則需要處死。鎖國令一直維持到十九世紀中期才隨著簽訂日美和親條約被廢除。

    重新對西方國家開放,日本的現代化變得迅速發展。從這段時間時間日本人面對西方文化衝擊下,不但輕易接受和吸收,還可以看到他們融入外來文化後再加以改進的驚人能力。短短50年間,日本已幾乎晉身成為能跟西方看齊的現代化國家。但是這細小島國還是缺乏天然資源,要增強實力,於是參考著國際間主要勢力當時增強的手法,日本也照辦煮碗,加入殖民的行列。於1895年,日本發動了第一次的中日戰爭,希望籍此能得到韓國、台灣和滿州等地的控制權。當時中國國力嚴重衰退,日本以為要打敗一條垂死的龍只是輕而易舉的事,但卻沒有想到此舉會引來在背後狠毒的熊,正要蓄勢待發。

    這時期的俄羅斯也正值混亂的時代,俄國沙皇一邊面對著不滿國家體制的人民,另一方面也苦惱於如何讓國家進行現代化,更要為麾下海軍找尋冬季不會結冰的港口。沙皇尼古拉二世看到的機遇,就是位於俄國南方的一個港口 – 亞瑟港(現今為遼寧大連旅順口)。位處韓國東面,但當時正被日本佔據,於是尼古拉二世盤算著先威逼日本交出港口,然後順勢接收日本和其所有殖民地,反正日本相對俄羅斯只是一個小國,理應是手到拿來。當然,往後的發展是尼古拉二世始料不及的。

    步向戰爭

    俄國照原訂計畫要求日本交出港口,面對世界上擁有最大國土的國家,日本二話不說便就範。俄國正在興建龐大的西伯利亞鐵路,也為亞瑟港進一步擴建。及後中國發生了義和團起義,俄國以協助平亂為由增駐派兵到這一帶,但是平亂以後不但沒有撤出,反而進一步增加駐兵。

    日本雖然對此舉不滿,但為免跟俄國捲入戰事,也只有按耐住。這是英國向日本提供援助,提供武器和軍艦抗衡,其實是為了試探俄國於亞洲的實力。但日本則選擇跟俄國談判,希望以和平手段達解決局面,只是俄國並不感興趣。

    尼古拉二世此時只是一心一意期待著粉碎他眼中的“黃猴子”,只想著進一步逼退日本駐軍,即使遇到反抗,要一舉消滅日軍只是易如反掌。而他對擊敗日本的執著,此時只源於種族歧視,尼古拉二世仍為俄羅斯軍隊比較強大,而俄羅斯人亦比日本人優秀。俄羅斯一直沒有認真對待日本對談判的要求,更步步進逼。

    最後,讓日本抓狂了。

    戰事開始

    1903年冬天,日本回應了俄國對戰爭的渴求,暗中部署。1904年2月8日,日軍偷襲亞瑟港,以小型潛艇重創了俄國軍艦,並於襲擊3小時後正式向俄國宣戰。事發後沙皇嚇到了,他從來沒有想過日本會於沒有預報的情況下對俄軍發動攻擊,更想不到在以後的戰役中會節節敗退,被日本奪回亞瑟港。

    隨後日本從韓國和滿州邊境向俄國連連發動攻擊,而俄國將領因為種族歧視的關係,一直低估日軍的實力。俄羅斯雖是大國,但軍隊倚重人力,相對日本已經能跟西方國家看齊的現代化軍隊,戰略和軍備都將俄軍比下去。

    海戰的困窘

    俄國東岸的亞瑟港失守,希望調動西岸海軍來增緩,但由於英國海軍於中東一帶阻攔,俄軍被逼繞遠道經過非洲回航,這樣一來讓日本的到充裕時間部署。日軍的情報機關成功追查到俄國軍艦的行蹤,成功於黃海一帶佈下陷阱。兩軍相遇排成一個「T」字狀態,俄軍艦隊以一字隊形直線航行步入陷阱,遇上橫向排開的日軍艦隊,日軍規模雖小,但整個艦隊連番發炮,而俄軍只有帶頭的軍艦能夠還擊,隨後的只能排在自己艦隊的後面呆著看,更龐大的艦隊也只能任人宰割,不飛多久就完全敗給日軍艦隊了。

    和談

    尼古拉二世雖然不算得上俄國最精明的君主,但他也意識到這次跟日本挑起的戰爭實在是不自量力,結果跟他本來盤算的完全相反。戰事對本來已經對統治不滿的人民火上加油,另一邊又不斷消磨軍隊士氣和消耗庫房,正煩惱著的時候,時任美國總統羅斯福竟然提出調節和談,成為了沙皇的救命草。

    和談雖然平息了眼前的戰爭,但卻為了日後的第一次和第二次世界大戰埋下伏線。由於沙皇發現有證據顯示德國於日俄戰爭中有按中協助日軍,所以跟法國斷了邦交。另一方面於和談中日方堅持俄國要為挑起戰爭向日本賠款,美國則選了跟俄國同一陣線反對。同時美國也因為擔心日本的勢力日益坐大,也留下了以後二次大戰的導火線。

    日本崛起

    日俄戰爭讓世界見識了日本的強大和於東亞地區的勢力,也同時振興了日本國內的士氣,這是近代史裡面首次有主要歐洲國家被亞洲擊敗。戰事也是俄羅斯帝國步向滅亡的序幕,帝國政權只維持到戰後10年左右。相反日本得以鞏固了於韓國和滿州的勢力,催化了日本稱霸東亞的帝國夢。

    *Featured Image:jp.fotolia.com/